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FIRST LIVE

岐阜県大垣市上石津町にて生まれ、 堅実な両親のもと、田舎の自然の中でのびのびと育ちました。
今の私が日本の四季が大好きなのは、きっと子供のときの自然との関わりにあったと思います。 学校から戻れば、おやつを持ち出し、外で食べる…。
近所にある広場の大きな石に寝転がって食べたり、家にある柿の木の上に登って食べたり、山の中の秘密基地で食べたり、冬は雪で創ったかまくらの中で食べたり…。 遊び相手は自然そのもの…。 キャベツの葉っぱの裏をめくり、蝶々を卵から育てたり、田んぼの蓮花畑に寝転がって花の首飾りを創ったり、夏は沢に行きタニシやカニを捕まえたり、川に泳ぎに行き溺れそうにもなりました。 共働きの両親でしたから、兄と一緒に遊んでいました。 こうして改めて思うと、とても楽しかった思い出いっぱいです。

そして、初めて出た叔父さんの結婚式で、即興の曲をつくってみんなの前で躍りながら歌っていたらしいです。 そのことはまだごく最近、2012年4月8日のディナーショーに来てくれた叔父から直接聴いた話で、ビックリでしたが、何だかとっても嬉しかったです。

小学生の頃の私の記憶は、毎日夜ごはん終わって片付けのとき母に 「ちゃんと聴いとってね〜」と、テーブルを拭きその頃流行っていた歌謡曲を歌ってました。 終わると「今日は何点?」と、ひとりのど自慢大会です。 今思い出せる曲目は… なぜか… 「わたしバカよね〜♪ おバカさんよね〜♪後ろ指、後ろ指、さされ〜ても〜♪あなたひとりに命を掛けて〜耐えてきたのよ〜♪今日まで〜♪…」 お分かりですか? なぜか新沼謙二さん… 小学生にしては渋いですよね… 毎晩「わたしバカよね〜」って歌っていました(笑)

ま〜とにかく、毎日歌っていましたね。 なんか楽しかったんです。声を出して歌うことが… 上手いとか下手とかじゃなくて…

家では音楽を聴くという環境ではなかったから、はっきりいって自分自身きっと音感はよくなかったと思います。
ただ歌うことが好きだった… それだけです。

小学校卒業して中学では、初恋の先輩が松山千春さんのファンだったから、詩を書き写したり、曲を覚えたりしていました。 「旅立ち」という曲が、その先輩の大好きな曲だと聴いて一生懸命覚え歌ってました。 そして、友達の影響で私自身は「オフコース」が大好きになり、当時の切ない恋心を重ねて、聴きながら泣いたりしていました。 きっと今現在のボーカリスト人生のルーツがこの辺りに始まりました。

中学では合唱が盛んでした。 私にとって、合唱大会はワクワクする楽しみなイベントでした。 みんなの声が重なりあいひとつになる感動や、ハーモニーの心地よさに、今思えばすでに癒されていました。 歌って癒され、聴いても癒される…

でもそれから高校時代は進学校で、全く余裕がなく歌からは離れていました。 大学に行きカラオケにはじめて行き、歌がうまくなりたいと思うようになりました。 自分自身の精神状態に合う曲を選びよく歌っていました。 教育大学にいきましたから、音楽のピアノや歌の単位も必要で、そのときもまた楽しい感覚を思いながら歌っていました。

母の会社の夏祭りにみんなの前で歌いました。 初披露は、「いい日旅立ち」山口百恵さんです。

社会人になり、教員として挑戦の日々が始まり、四年目の秋に母の病気がわかり、看護退職することになりました。
しばらくして、全く別の仕事をするなかで、公私ともにいろんなことがありました。 かけがえのない人に出会い幸せな日々が続きました…。 仕事との両立の中、ある夜突然別れ話をされ、一気に深い悲しみに落ちました。 もう本当に人生がすべて終ってしまったかのような絶望感を、味わいました。
でも、変わりなく仕事はしなくてはなりません。 周りに余計な心配をかけないようにと笑顔で元気にがんばりました。 でも、一人になると涙が出ました。 毎日毎日悲しかった…そして、大好きだった彼とのことが、うまくいかなくなったことを、自分のせいだと思い込み、それから自分自身を攻め続けます。 恋愛がうまくできなくなりました…

そんな頃小田和正さんのライブに行きました。 初めてのライブでした。 曲が流れて身体に響き、小田さんが歌い始めると涙が出ました。
「君すむ街」で、号泣しました。 涙がこんなにもとめどなく溢れ出てくるなんて… 自分でも止めることができないくらい、身体を震わせて大泣きしました。 周りにいた人はきっとちょっとビックリしていたと思います。 約三時間のライブが終わるまで、涙が出ました。 一年間の全国ツアーでしたから、あちこち行きました。 行く度に泣きました。 泣くと少しスッキリ軽くなりました。 心の痛みも少しずつ少しずつ癒されていきました。凄く有り難かったです。

なかなか、日常の中には我を忘れて泣ける場所が無かったから、本当にありのままの自分を受け入れて、一緒に寄り添ってあげる、そんな人間らしい時間を過ごさせてもらえたことに感謝です。

そして、私もいつか人の心を癒すオアシスのような時間空間を創るボーカリストになるという夢が生まれました。

小田さんにしてもらったことを、今度は私が皆さんにお返ししていけたら嬉しいなぁとワクワク考えるようになりました。

それでもなかなか自分自身の性格が邪魔して、実際には行動に移せませんでした。 それでも、曲づくりにはチャレンジしようと取りかかりました。 でもなかなか、詞がはっきりとは浮かばなくて、サポートしてくれる先生の暖かい言葉に励まされながらようやく曲ができたのが、震災の三日前でした。
オリジナル曲「瞬く季節」は、今まで起こった全ての事に心からありがとうと感謝の気持ちが湧いてきて書き上げることができた曲です。
私は日本の四季が大好きだから、春夏秋冬を通して起きた全ての出逢いと全ての別れに感謝出来るようになった瞬間にできました。

良いことばかりの人生を望み、悪いことが起きないようにと必死に生きていた時代がありました。 でもいまは両方があっていいんだなって思えます。

人生で初めてのオリジナル曲が、こうして誕生しました。 達成感があり、なんだかとっても嬉しくなりました。

そして、2011年の12月のファーストディナーショーをやることを決断しました。

そこからラブレジャーボーカリストとしてスタートしていく覚悟ができました。
それまでは、いくら褒められても、応援されても、一歩を踏み出す勇気が出ませんでした。
でも『在り方』がシフトしました。
周りからどう見られるかではなく自分自身がどうありたいか…。 まだまだ、まだまだ…。 もっとうまくなったらやろう。
そう考えていた時は、一歩が前に出ませんでした。
でも、とにかく始めよう。 ここから始まるストーリーをみんなにみてもらえばいい…。
私が進化していく姿を見ながら、もし一人でも力付けられる人、勇気付けられる人がいてくれたなら、素晴らしく意味のあるスタートになるなぁと。
自分を表現していくなかでもしも人の人生のお役にたてたなら、そんなに嬉しいことはありません。

43歳ラブレジャーボーカリストSatomiの挑戦はまだ始まったばかりです。


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